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講師それぞれのストーリー

ストーリー=インタビューライティング

ストーリー=インタビューライティングは、フリーの長村浩子ことwおさむちゃんさま

「素敵なヨガセラピストの皆さまの魅力をお伝えしてまいります!」
とのありがたいお言葉いただきました❤︎

今後も随時更新予定です^v^お楽しみに、、、!

ストーリーVol.1 宮原暁子

代表・理事挨拶

宮原暁子

代表理事/養成講座開発者/講師

代官山や恵比寿などのヨガスタジオにて、各種ヨガのインストラクター、並びにジャヤチキッサ=アーユルヴェーダコンサルを務めた後、都内でアーユルヴェーダサロンを展開するExpanse..の立ち上げに携わり、ヨガ事業部長に就任。取締役に。

一般社団法人ヨガセラピスト協会設立。

宮原暁子

わらう、なく、おこる、いつくしむ。渇き、満たされ、息をし、いのちを愛するということ。
大いなるちからに生かされているという、奇跡。
今を、生きている喜び。

どんなに強く風が吹いても、
どんなに激しい流れに巻き込まれそうになっても、私がここに立ち続けていられるのは、
たくさんの“愛”を感じているから。

宮原暁子

言葉では説明できない、大いなるちからに生かされていることに
気付かせてくれたのは、母でした。

「夢で、あなたの涙を見たの」私が辛いとき、悲しいとき、寂しいとき。
遠くにいてそれまでやり取りがなくても、決まってふいに連絡をくれる母。

網の目のようにつながる私たちの存在が、響き合うその音の中に、母はいつもいる。母の瞳には、どこか不思議で温かな光がある。

宮原暁子

いのちの尊さを、純粋に生きる喜びを
教えてくれたのは、父でした。子どもの頃、私は、言いました。「青虫は蝶になるために、たくさん食べて、蛹になる。
いのちって、すごい」父は、言いました。「青虫や蛹は“蝶になるため”に生きているのだろうか。

もし、蛹が蝶になれなかったなら、
その命には意味がないのかな」何かとても大切なメッセージを、受け取った気がした。私たちは、いつか、なにか、になるために
生きているんじゃない。今、この瞬間を生きるためにここにいるんだ。

厳格で、現実的で、鋭い父の胸の奥には、
いつも強くて優しいぬくもりがある。

そんな、目に見えないそんざいをも信じる母と、目の前の現実を信じる父とは、
意見が食い違うこともしばしばありました。

でも、考え方の違いを超えて二人は通じ合っている。
たくさんの愛情に満ちている。二人のその想いは、深く、私の中に刻まれています。

宮原暁子

強い世界観を持つ人に囲まれ、そして世界観を超えた愛情に育まれ、私は全ての思想を受け入れたかった。考えることはどんどん大きくなっていき、大学では国際政治経済学部というところで日本や世界の社会問題を論じようとしていました。

立派な経済思想、高尚な世界平和理念、多様な歴史認識。激しく巨大なうねりに、ときに立ち向かい、ときに飲み込まれ、多くの思想を学びました。

たくさんの源流を語る言葉を経て私が手にしたのは、日常のささいな出来事を語る言葉でした。日々の暮らしをどう生きるかという、当たり前だけれど大切なこと。

この両手で掴むことのできる世界。すべてはそこに繋がっていきました。

宮原暁子

ヨガとの出逢いは幼い頃でしたが、本格的にその強い世界観の扉を開いたのは、娘を授かり、自分も母親になってから。出産直後から、単身赴任で不在の夫との家庭の中、未だ若く、
周りに相談のできる人がいなかった中、私と子供のいる空間だけ
チョキチョキとハサミで切り離されてしまったような、孤独や、、、

そんな時、ヨガと瞑想の時間が自分の確かな支えとなってくれました。

ただ、眺めること。
人や自分の動き、言葉、態度、
空気、音、色、光、感情、体温、呼吸、心臓の音、
湧いてくる想念。

宮原暁子

どんな瞬間も、ただ眺めるよう心がけているだけで、気づけば、自分自身をからめとっていた囚われはクリアになっていき、私の周りにあるような気がしていた輪郭が薄れ、周囲との隔たりを感じなくなり、むしろ、繋がりを確かに感じられるようになっていきました。

ヨガの起源は紀元前のインドにあると言われています。
呼吸を整えて瞑想の世界に入るということは、経験するまでは理解が難しいかもしれません。

だからと言ってヨガは、曖昧なものでも、実体のない虚構でもありません。現代医学や生理学、脳科学的にも呼吸や瞑想が私たちの脳神経に影響を与え、神経伝達物質の放出を促し、様々な生理活動を引き起こすことが証明されています。

例えば、ヨガの呼吸を通じて自律神経のバランスを整えることでセロトニンという
物質が放出されることが知られています。まるで、母の愛情で全身をつつまれていた
おさない頃、家族に囲まれ過ごした安心感にとてもよく似た感覚。それだけでなく、現在では未だ解明されていない、プラーナや微細なエネルギー
経路ナーディ、その他概念についても、紐解かれていく日がくると、
ヨガや瞑想の深まりの中、全身で感じています。

都内スタジオでのヨガのインストラクターを経て、サロンをオープン。ヨガセラピストの養成講座も開設しました。本当に良き縁に恵まれての、楽しくて仕方ないこと満載の日々でしたが、静かに眺めることを楽しむ力を付けるに連れ、より繊細な表情を見せてくれる自然の恵み豊かで、それでいてちょっとした都会もある横須賀に移り、それまで恵比寿にあったヨガサロンは閉じ、ヨガセラピスト協会を立ち上げました。

養成講座では、ヨガの哲学を根幹においておりますが、人それぞれの段階、ブーミカと、実践、アディカーラを大切にしているため、他のスタジオの様にヨガ哲学の決まった教科書、は使わないことがほとんどです。インド神話が伝えてくれる、複雑で多面的な繋がり、複数のパラドックスを、わたしたちひとりひとりが内包し生きている。

深遠な神話を直感的に理解していく様に、わたしたちは自分の中にながれる様々なストーリーにこそ耳と心を傾け、手を当て確かめ、なき、わらい、いかり、それらをただ、味わいつくし、さすり、癒し、とらわれから自由になっていく道を、一緒に歩めればと願っています。

 

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ストーリーVol.2  保科恵

保科恵

リストラティブヨガ単元講座共同開発者/講師/静岡東部盛り上げ隊長

保科恵

気がつくと、いつも自分のことは後回し。目の前の人の期待に応えなきゃと、真面目で頑張り屋の優等生を演じようと必死だった。ときどき、頑張り過ぎて無理をしてしまったり、身動きがとれなくなってしまったり。もっと自然にいられる心地よい関係をつくること。それがヨガを通じて見えてきた、本当の私らしさでした。

一つのことに没頭すると周りが見えなくなるタイプ。高校では陸上に打ち込み、
そのまま実業団チームに就職しました。ところが、厳しい練習がたたって陸上を続けられなくなり断念。接客業へと転職。新しい仕事にもすぐのめり込み、バリバリ仕事をこなしました。ハードな日常にふと足が止まったとき、果たして私は一生この仕事を続けられるのだろうか、という疑問を感じました。目の前のことに全力を注いで生きてきたけれど、
この先もずっとずっと続けていけるような変わらないものってなんだろう。仕事と生活以外の何かを求め、たどりついた先がヨガでした。

保科恵

「なぜヨガに通うのか」とヨガを始めた私に尋ねる人がありました。自分でもわからない。言葉にできないけれど、言葉にできないからこそ、私にとって本当に必要なものが、そこにはあるような気がしていました。

ヨガの持つよさを深め、もっと人に伝えたい。私はヨガセラピスト協会の門を叩きました。仕事があって、生活があって、そしてヨガがあると思ってた。でも、すべて分け隔てる必要がないということを学んだとき、するりと心の中で解けた結び目。

規範を守る良い子と思われたい、仕事にプライベートを持ち込んではだめ、皆の期待に応える優
等生でいなきゃ。常識の鎖に縛られた私に、暁子先生はゆっくりと語りかけていってくれました。

ベストを尽くそうと思うあまりに、曲がりくねった道をまっすぐ突き進もうとしていたのかもしれない。人それぞれ道は違うのだから、遠回りしても大丈夫なんだ。“歩みを委ねる”というヨガの教えを少しずつ理解していきました。

保科恵

卒業後、たくさんの方々のご好意やご縁に恵まれ、色々な場所でヨガレッスンを行う機会を頂いています。浅間神社、職場の知人の両親が営む居酒屋の宴会場、正蓮寺というお寺さん、接骨院、などなど。

一人の力で大勢の人の助けになれるほど、私は万能なんかじゃない。でもだからこそ、目の前にいる人の力になりたくて、できることを精一杯やってきました。その結果としてヨガレッスンをする場所があり、通ってくれるたくさんの人がいるのだとしたら、それはとても嬉しいことです。

ある時、婦人科系の悩みを抱える方々の通うヨガレッスンを開催する中で「マタニティヨガをやって欲しい」という声が私の元に届きました。

興味はあるものの、ママになった経験がない私にはまだ早いと思っていました。ヨガの先生だったら、全ての生徒さんの気持ちを理解出来てなきゃダメだ、という思い込みがどこかにあったのかも。でも、マタニティヨガを求める未来のママが居る。
やるなら今しかない。

私は再び暁子先生の元に通い始めました。今度は、マタニティヨガの養成講座とヨガレッスンの両方を並行して実施しました。

妊婦さんにヨガのポーズみたいな難しい動きをさせて大丈夫なの?と思う方もいらっしゃいます。私もはじめはそう思いました。それも私たちを縛る常識の一つでした。もちろん、妊婦さんゆえの身体的特徴にあわせ、気をつけなければならないことはありますが、全てを禁止するのではなく妊婦さん自身ができることとできないことを自分の感覚で見極めることが、ヨガ本来の役割です。

保科恵

私のヨガレッスンに通ってくださる方は、身体を動かすことを目的とされる方々ばかりではなく、本当にいろんな方がいらっしゃいます。別のレッスンでは、親御さんの勧めで若い女性の方が参加してくださったことがありました。

彼女にとって初めてのヨガレッスンだったその日。レッスンが始まっても、彼女はずっと下を向い
てばかり。私は違和感を感じ、注意して彼女を見守ると、彼女に必要なことは休息することと心に
寄り添ってあげることだ、ということがわかりました。そこで、すぐさま彼女だけ休むヨガにきり
かえました。私のヨガレッスンでは無理をして皆と同じ様にする必要はありません。それはかつて学んだ“歩みを委ねる”という考え方。その後も彼女はヨガレッスンに通い続けてくださり、暗闇に向けられていた視線は徐々に瑞々しさを取り戻していきました。

レッスンの後、彼女がつけていたノートを見せていただく機会がありました。そこにはイラストつきで毎回のレッスン内容と私が話した言葉が細かに記録されていました。
言った当人の私も覚えていないような言葉までも。ヨガというのはこんなにも深く、相手の中に残るものであるということを改めて実感しました。

ヨガセラピストとして生活をするのは、正直大変なことも多いです。

今でこそ、人々が抱える悩みや苦しみに気づいたり、表面的な言葉に流されず本当に心の中で求め
ている部分に耳を傾けられるようになってきましたが、それも、ヨガセラピスト協会で学んだこと
を意識し実践し続けてきた結果です。

もし、ヨガの先生になることに興味があるなら、コンスタントにレッスンを開催することができな
くても、月に一回、友達を集めてヨガの時間を作るだけでもいい、と私は思います。

ヨガをやりたい、と思った気持ちを大事にして、もっと多くの人たちにもっと自分に素直になって
欲しい。自分のペースで、ゆっくりと時間をかけながら、心の奥で本当に望んでいることは何なの
か見極めること。ヨガはそんな機会を私自身にも周囲の方にも与えてくれます。

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ストーリーVol.3 丸岡亜紀子

ボディメイクヨガ開発者/講師

丸岡亜紀子

キャリアウーマン、海外生活、夫の死からヨガの道へ。どれも一見バラバラに点在する私の過去ですが、そのどれもが私のヨガセラピストとしての活動につながっています。人にはそれぞれ様々な生き方や体質や個性があって、どの人生にも良い波辛い波がある。そのどんな時でも奢らず恐れず自身を見つめ、本来の自分の力に気づかせ、その人の人生を照らしてくれるのがヨガだと私は思います。

私は物心がついた時から、人マネをして周りを楽しませたりすることが好きでした。自由な社風で既存の保険業界に切り込んでいく外資系保険会社に魅力を感じ、新卒で就職。活気溢れる職場でやりがいを感じていました。LAにいる婚約者と離れ7年間を過ごした後、キャリアアップ目前で渡米を決意。新天地は今までの環境とは別世界でした。

カリフォルニアの陽の光を浴びて、パームツリーをなでるそよ風を肌でかんじる日々。夫という大切な家族が近くにいて、やさしい時間をつむぎました。その頃ヨガにはまり、ヨガ教室に頻繁に通うようになりました。そうした穏やかな日々が2年半過ぎたころ、突然、日常は終わりました。夫が原因不明の病気になり、懸命な闘病にも関わらず他界してしまったのです。再び日本で生活をすることになりましたが、私はこの運命をなかなか受け入れることができませんでした。

ちょうどその時、ヨガセラピスト協会のホームページに巡り会いました。カリフォルニアで出会ったヨガの世界。懐かしい日々を思い出し、
気づけば受話器を握っていました。受話器越しに返ってきたのは、「きっと良い先生になれますよ」という暁子先生の優しい声。ふわっと、胸の辺りを爽やかな風が吹き抜けました。

ヨガセラピストになろうと思ったのは直感だけではありません。リフレクソロジーの資格を持つ私は、病気で苦しんでいた夫の体をほぐしてあげると身体が温まり、とても喜ぶ姿をみてきました。そこで解剖学の知見を基にした、心と身体の両面からアプローチする手法に強く共感しました。ヨガは、何千年も昔から私たち人間の身体を構造から理解し、呼吸法や瞑想法を通じて精神の深い場所へとはたらきかけていたのです。

体のことはすんなりと入ってきましたが、ヨガの世界はより深く、長い年月を経て積み上げられてきた世界観を会得することは容易いことではありませんでした。でも、暁子先生はずっと側で見守ってくださり、たくさんの時間をかけてくださいました。こうして鍛錬する日々を重ねるうちに、私の中で不思議なことがおこりました。自身の運命を、流れる水のように受け入れることができ、その瞬間自分の中に眠っていた真の力が湧いてきたように感じたのです。まさに自分の心と体を整えることで得た感覚でした。ヨガの緻密で深い世界。この感覚をぜひみんなに伝えたいと思いました。

丸岡亜紀子

ストーリーのその後、数年で都内各スタジオで人気講師になられた亜紀子さん。
ボディメイク講座、を開発され、今や、協会のメイン講座の一つとして、ヨガセラピスト養成講座の中にも、取り入れさせていただきました。

ボディメイク講座のご説明は以下。
こちらもインタビューライターのおさむちゃんに書き下ろしていただきました!

ボディメイク講座に込める想い

ボディメイク講座に込める想い

私がお伝えするボディメイクヨガは、一人ひとりがもつ本来の美しさを引き出すことに特化したヨガ。ここでいう「美しさ」とは、見た目の美しさです。なぜ私が見た目の美しさにこだわるのか。それは内面の美しさと外見の美しさは、とてもよくリンクしていると感じるからです。

身体の内側の不調が、表情や肌の色艶、目の輝きといった外見に強く影響を及ぼすことは、多くの方が実感していると思います。日々の精神の在り方や考え方は生活習慣を生み出し、知らず知らずの内に骨格をも作り上げてきました。私達が直接対峙することのできる身体の外側からアプローチすることで、内面に潜む魅力を引き出していきたい。長年の習慣が生み出した骨格の歪みを元に戻してやることで、本来の美しさを取り戻していきたい。ボディメイクヨガには、そんな想いが込められています。

 

深い悲しみや、強い抑圧、激しい不安を抱えている方、身体的にコンプレックスを抱えている方においては「美しさ」を求めることに抵抗を感じる場合も少なくないかと思います。

しかし、そういった方にこそ、ボディメイクヨガを届けたいと考えています。私も過去に、一歩も外に出られなくなってしまうほど、深い悲しみと激しい痛みを経験しました。人生の辛い波に襲われているとき、私に光を照らしてくれたのはヨガでした。だからこそ私は、ヨガのもつヒーリングの力を強く信じています。そして何よりも、老若男女問わず、自分本来の美しさに近づいたときに見せる輝く笑顔。美しさを求めることは、とても自然な本能の一つのようなものだと思います。そのことに素直になり、自分らしい姿になる喜び。それは鬱ぎ込みがちな心を開放する、大きなパワーを秘めています。

体型やその先に潜む悩みは一人ひとり異なるので、必要なアプローチも千差万別です。これまで培った経験からどんな悩みにも対応可能なよう体系化した、ボディメイクヨガというメソッドを身につけていただくとともに、ヨガのもつヒーリングとパワーの世界をより深めていただけたらと思います。

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ストーリーVol.4 牧野加奈子

牧野加奈子

ヨギー・ヨギーニのための四季の和食講座レシピ提供

牧野加奈子

食べるということは、物語を読むことのように感じます。

一皿に盛られた料理が手のひらの中に辿りつくまでには、たくさんの人のたくさんの物語が関わっていて。
食べることでそれらが一つに溶け合い奏でられるメロディーは、遥か昔の記憶まで運んできてくれる。そのことを改めて教えてくれたのは、イタリアの海と太陽に見守られ、一杯のあるリキュールを飲んだときでした。

日本でも何度も飲んだことがある、甘くて苦いそのお酒が教えてくれたのは心と、からだと、そして大きな物語とが、つながる喜び。

この地でどうしてこんな飲み物が生まれ、人々に愛され、私の目の前まで辿りついたのか。
そのとき、それらが五感を通じてすうっと、私にしみこんでいく心地よさを感じました。

昔から、食べることが好き。美味しいものを作って食べたい。そんな気持ちから、料理も好きになっていったように思います。
海外の文化にも興味があり、たくさんの国を訪れました。
海外を訪れるときは決まって、地元の人が集まる食堂で、地元の人と同じ料理を食べます。

どんな環境でどんな食材をどんな風に食べるのか知りたい。料理だけでなく、飲食店の経営がしたいと思うのは、食というものを取り囲む全てに魅了されているからなのでしょう。
どこで誰とどんな気持ちでいるのかによってカタチを変える食は、全てが一期一会です。

大学卒業後は、日本料理店で働きました。

いわゆる、板前の世界。今となれば学びの多い貴重な時間でしたがその頃の甘っちょろい私には厳しすぎる修行で、挫折。
けれども、その中で出会った野菜を拵える作業に魅せられ、もっともっと野菜の料理を極めたい、との思いが強くなりました。

野菜は料理人として、難しくも楽しい食材です。
肉や魚に比べ旨味を引き出すのに時間がかかるし、手間もかかる。
一般的においしいと一口でわかってもらうのには、肉や魚のほうが簡単です。

けれども、その分様々な形に変化もつけられるし、食感も自由自在、色合いも、味も変化に富んでいます。

板前修業の後、世界でも有数の農業国でもあり、最も食いしん坊の多い(?)フランスに渡りました。
そこでの生活は、私の人生の中でも宝物のようなきらきらとした時間。

カフェや、和食のお店、ときには普通の家庭に日本食を作りに行くアルバイトをして日銭をかせぎ、市場で珍しい野菜を買ってきては自分で調理して試してみたり人の作ったおいしいものを多いに食べたりしてすごしました。

そんな1年がすぎ、やっとのこと見つけたちゃんとお金を出して雇ってくれるレストラン。このまま日本に帰らなくてもいいと思った矢先。自分が重い病を抱えている事がわかりました。

食材にも気を使い、食事には人一倍関心を高く持ってきたのに、どうしてだろう。
そんな疑問の先にいたのは、一人の日本人としての自分自身でした。

日本人として生まれ育った私には、日本の食材、日本の料理の方が馴染んでいたのかもしれない。いくら“からだにいい”食材であっても、心とからだにリンクしなかったのかもしれないと。

フランスでの生活からは一転、1年近く入退院を繰り返しながら、日本で治療に専念。

回復した後は、もう一度、あきらめていた和食を学びなおしたいと、再び懐石料理のお店で修行を始めました。
負けず嫌いな性格のお陰でついつい根を詰めてしまうこともありましたが、自分のからだの声によく耳を傾け、丁寧に歩いていくよう心がけました。その後何年かして独立し開いた現在のお店。

常連のお客さんの一人だったヨガセラピスト協会の宮原暁子さんから、協会で私のレシピの和食講座を開きたいと依頼されたとき、正直戸惑いました。
なぜならヨガと、和のものである私のレシピがどうつながるのか、わからなかったからです。

しかし、暁子さんのお話を聞くにつれ、ヨガの世界と私が食を通じて表現しようとしている世界とに重なりがあることがわかっていきました。
ヨガと起源を一つにするアーユルヴェーダには、「その土地で獲れた旬のものを味わう」という考え方があり、だからこそ日本に住む日本人の自分たちには先ず和食、という暁子さん。
フランスでの生活の後、和食に立ち返ったことを思い出しました。

また、「エネルギーを認知摂取するために五感が作られた」と捉えているため、正しい量と質の摂取によって、五感を十分に満たすことが重要ということ。
味においても、6味、つまり甘味、塩味、酸味、苦味、辛味、渋味のすべてを感じることで、こころと身体を満足させるという考え方があるとのこと。
五味・五色・五法というようにあらゆるアプローチからすべての感覚を楽しませる和食、根本的なところで一致するものを感じました。

現在、私の店では24節気の移り変わりにあわせて定食をお出ししているのですが、ひと季節の前に、節季ごとの定食の計画を立てるものの、実際にそのシーズンになり、思ったより今年は暑いとか、雨が多いとかによって、当初の計画にこだわらずどんどん変更していっています。

土地のつながり、同じ空の下で同じ風に吹かれているからこそ共有できる、その時々の感覚。
地元のものを、旬のものを使って、今まさにからだが求めるものを食べたいし、食べてもらいたい。
私が食に込めてきた思いが宮原さんに伝わっているようで、嬉しくもありました。

和食講座のレシピで大切にしているのは、1年間を通じて一通りの調理法をマスターできるようなレシピとすることです。
限られた講座の中でなるべくたくさんのものを持って帰ってもらえたらな、と考えさまざまな要素をいれるようにしています。

レシピがヨギーニのみなさんそれぞれの感性を通じて料理となり、食卓を囲む多くの笑顔と出会う。
食材を感じ、つながり、広がっていく感覚の手助けになれればと願っています。

全ての食は、私たちのからだの一部となり、からだはたくさんの物語とつながっていくのだと思います。
イタリアの海と太陽がくれたあの思いが、消えることのないように。

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ストーリーVol.5 野嶌めぐみ

ハワイリトリート開催地OHANA SPACE HAWAIIオーナー/講師

野嶌めぐみ

私が経営するヨガスタジオがあるのは、ハワイです。ハワイという土地を選んだ理由は、初めて旅行で訪れた24歳のときに遡ります。

ホノルル空港から一歩踏み出した瞬間、感じた匂い。
それは未来を運んできてくれる、幸運の風。常夏の大地が私を歓迎する、挨拶の声。

ハワイというと、どこか浮ついているイメージがあって好きになれない、なんて勝手に思い込んでいたあの頃。
そんな苦手意識を一瞬にして消し去った穏やかな空気に包まれるうちに、私はすっかりこの生命力溢れる島の虜になりました。

私が幼い頃どんな子供だったかと言うと、例えば、テストの結果をみて「98点“しか”とれなかった」と思うタイプ。
「期待に応えないと」「優等生でいなくちゃ」100%以上の自分で生きることが、ついつい習慣に。
社会人になってからも、会社でもプライベートでもとにかく目まぐるしく働きました。
少しくらい無理をしている方が、なんだか生きているということを実感できるような、そんな気がしていました。

ヨガに初めて出会った場所は、ハワイでした。
もともと身体を動かすことが好きだった私は、日本でもジム通いを始め、どんどんはまっていきました。
ヨガで流す汗が気持ちよくて、気がつくと100%以上のパワーでヨガに打ち込むように。

そんなとき、無理がたたってヨガの最中に腰を痛めてしまいました。ところが、病院に行って検査をしても「異常なし」。

現代医療では解明できない不調を経験し、その解決方法を探すため、ヨガをもっと深く知り、自分の身体と向き合ってみようと考えたのが、ティーチャートレーニングを受けようと思ったきっかけでした。

あるティーチャートレーニングで、たまたま隣合わせになったのが一見恵さんでした。
一見恵さんは、偶然にも私と同じ名前、同じくハワイに魅せられた人。何か深い繋がりがある気がしてなりませんでした。

精神と身体のバランスを整えることで代替医療のはたらきを期待できるヨガの側面に着目し、その可能性を模索していた私にとって、一見恵さんを通じて知ったヨガセラピスト協会は非常に気になる存在でした。並行して進めていたハワイへの移住計画が数ヶ月後に迫っており、身体は日本を離れつつあるのに、不思議と心は横須賀にあるヨガセラピスト協会に吸い寄せられていきました。

ハワイに移った1年目、ぜひヨガを教えてほしいという声がハワイに住む方から私の元に集まりました。

過去に腰を壊してしまった経験もあり、ヨガを教えるならきちんとスタジオを構えて責任をもって教えたい。
当初はヨガレッスンを始めることに慎重な姿勢をとっていましたが、たくさんの声に後押しされる形で、移住2年目にして早速ヨガスタジオオープンの話が持ち上がりました。
スタジオオープンの話が具体的になればなるほど、ヨガセラピスト養成講座を受講したいという思いは「受講しなければいけない」という使命感にも似たような、強い思いに変わっていきました。

帰国できるタイミングに合わせてスケジュールをなんとか調整してもらい、暁子先生の元で集中講座を受けさせていただくことにしました。
初めて暁子先生に会ったとき、どうして私がここまでヨガセラピスト協会に繋がりを感じたのかがわかったような気がしました。私が初めてハワイに来たときに感じた、あの温かな空気。
それと同じものが、暁子先生の中には流れている。

スタジオオープンを目前にして、2歩も3歩も前のめりになっていた私に、暁子先生は言いました。

「本当に今、スタジオオープンのために無理を重ねなければいけませんか?もしかしたら、今はそういうタイミングじゃない、ということかもしれませんよ」

優しくて温かくて全てを包み込む、太陽のような眼差し。周囲の期待に応えようと全力で走り続けるあまり、一息つくことを忘れてしまう私は、無理をしているということにすら気付かないことが多いです。養成講座がくれたひたすら自分自身と向き合い続ける時間は、今まで見ないフリを続けてきた本当の自分と、真正面から対峙する貴重な時間となりました。

その後、もっと医療や解剖学に関する知識を深めたい思いから、マッサージセラピストの学校に通い、ハワイ州公認マッサージセラピストライセンスを取得しました。

また、自分も含めより多くの人々が自然な健康維持を求めるようになってきたことから、ヨガやマッサージのセラピーに加え、化学物質(クスリ)ではない自然の力=エッセンシャルオイルにも着目するようにもなりました。香りといった五感を通じて直感的に感じる心地よさは、人間が本来もっている自然治癒力を高めていってくれます。

セラピストとして、一人ひとりの心と身体を緩め、輝く明日へと力強く一歩踏み出すお手伝いができたら、こんなにうれしいことはありません。これまでを振り返ってみると私は、今を生き抜くために意思の力に頼りすぎていたのかもしれない、と思います。

ヨガの呼吸やアーサナを繰り返しながら身体をほぐしていくことは、そのまま心をほぐすことにリンクしています。逆に、柔らかい心を持つことができれば、身体も自然と柔らかくなると私は考えています。
柔らかい心と身体をもつことは、今まで以上に精神的にも身体的にも私を強くしてくれました。私が模索していた代替医療の答えは、やっぱりここにありました。

横須賀での養成講座を終えた後、程なくハワイでヨガスタジオをオープンさせました。

ヨガスタジオの経営を通じたくさんの人に、暁子先生からもらった温かさを伝えていきたい。そのためにはまだまだやりたいことがいっぱいあります。穏やかな風が流れ、MANA(スピリチュアルパワー)を感じるここハワイで、ときには頑張り過ぎてしまう自分も認めながら、全部受けてとめて新しいパワーに変えて歩んでいきます。

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ストーリーVol.6 柴山ひとみ

起雲寺”絹英”/講師
柴山ひとみ

お寺の朝は早い。
まだ夜が明ける前から、一日がはじまる。私が暮らす人里離れたこの場所は、いのちの音で溢れています。川のせせらぎに鳥や虫の声。ポキポキと木々が会話する音。それらが溶け合った新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むと、自然と身体の中が透き通っていくような感覚に包まれます。

連綿と続く世界において、私自身もまた、この世界の一部である。

ふとそのことに気づき、点在する過去と未来が一つにつながる心地よさ。あらゆる瞬間が、私にとってはヨガであると感じます。

私がヨガをはじめたのは、20代のときでした。
ヨガに通い出した一番の動機は「運動不足を解消したい」といった単純なものに過ぎません。ところが、実際に自分の身体がどう動くのか感じ、何を意識して向き合えばいいのか考えることが、私の好奇心をくすぐったのも事実です。

ヨガスートラにはじまり、哲学、心理学、仏教に関する本から占星術の本まで。好奇心から知識を深め、知識は新たな好奇心へとつながっていきました。

そんな中、少しヨガから遠ざかる期間がありました。本当のことを言えば、自分の人生の道が見えなくなり、ヨガをする気力さえ失ってしまった。 そんな時期があったのです。

ある日、とにかく自分を変えたいという思いから参加した震災のチャリティイベント。そこでヨガセラピスト協会で受講された方による、ヨガレッスンを受けました。何を食べても砂を噛むようで、夜も眠れず、笑い方すら忘れ、黒塗りの小さな世界に自分を閉じ込めてしまっていた、当時。ヨガを通じて新鮮な空気が身体の奥深くまで流れ込んだ瞬間、言葉にできず溜め込み続けた思いが涙となって、一気に溢れ出ました。

気がつけば以前のように、ヨガをもっと深めたいという探究心が戻っていました。とりわけヨガセラピスト協会の存在が気になり、ホームページから暁子先生宛てに、思い切って送ったメール。私の想い一つ一つに応える丁寧な回答に、一歩、また一歩と前に踏み出す力をもらいました。自分自身を救ってくれたヨガを多くの人に広めたい、という強い想いを実現するべく、ヨガセラピスト養成講座の受講を決心しました。

ヨガセラピスト協会の教えは、私の内側に、とてもすんなり入ってくるものでした。
講座からの帰り道、車中から何度も目にした、燃える夕日が海岸線を茜色に染める光景。大いなる世界、果てしない自然の輝きに包まれる喜び。

呼吸をするだけで、今、ここに生きているだけで感じる幸せ。レッスンを重ねるたびに、日常に散らばる小さなヒントへの感性が、研ぎ澄まされていく。私がより私らしくいられるような、そんな心地よさがありました。ただ一つだけ、私には苦手なものがありました。 それは、人前で話すこと。講座の中でもうまく自分を表現することができず、言葉が詰まってしまうことがありました。つまづき戸惑う私に、そっと寄り添い続けてくれた暁子先生。無理をして言葉を作り出すのではなく、ヨガの持つ力を信じること。

その大きな力にそっと手を添え、流れを感じとる。ただそれだけでいい。そのことに気づくと、不思議と人前でも緊張が解けていくのがわかりました。

ヨガセラピスト協会を卒業したあと、偶然にも「お寺でヨガをやってみないか」という話が舞い込みました。以前から仏の教えとヨガの哲学に、通じる部分があると感じており、また、話を持ちかけてくれた住職の「地域住民が集まるコミュニティを作りたい」という考えにも強く共感し、お引き受けすることにしました。絡まる糸に心が焦り、無理に解こうとすればするほど、キツく自分自身を縛り付けてしまった過去。

あのときの私ほど深刻でなくとも、誰しもが意図せず結び目を抱えてしまっていることが多いです。そんな結び目を、ゆっくりゆっくり緩めていくこと。 それがお寺のヨガです。

本堂の中をオレンジ色に染める光が、深く斜めに差し込むころ。

みんなの顔が生き生きと輝き、それぞれ異なる背景をもった人同士が、一本の糸で紡ぎ合わされたような空気が漂います。参加者の方は毎回違うので、何が正解なのか未だに迷うこともあります。

そんなときは無理に答えを求めようとせず、ヨガを伝えることに集中するようにしています。私から何かを与えるのではなく、一人ひとりの中にある優しさや温かさを感じてほしいから。

以前、お坊さんの方々の前でヨガをやらせていただいた際、「先生の声がだんだん透明になっていった」という言葉をいただいたことがあります。私がヨガを通じて表現したいことが届いたような気がして、とても嬉しかった。

お寺のヨガを続けるうちにご縁がつながり、山奥のお寺に嫁ぐことになりました。
あまり人の寄り付くことのなかった山寺に、ヨガをきっかけに人が集まるようになる。人を集めてヒーリングライトを灯すイベントを開いたり、精進料理をお出ししてお寺への理解を深めていただいたり。関わりを持つことで、広がっていく可能性。なんだか、毎日手を合わせている仏さまのお顔まで変わってきたような気すらします。

私自身も仏の道に生きるものとして得度という儀式を受け、仏門における名前をいただきました。「絹英(ケンエイ)」私がこれまで感じてきたことにピッタリと重なる二文字に、とても驚きました。細く透き通る糸から強くしなやかに輝くシルクを織りなすよう、英知を伝える存在でありなさい。そう言われているように、私には感じます。

大きな挫折を味わったことも、そこから抜け出したことも、未だに迷い戸惑うことも、すべてが私にとって必要なこと。すべて私が歩んできた道であり、これからも歩み続ける道です。現在私がやっているヨガは、もしかしたら、一般的に思い浮かべる、華やかなヨガのイメージとは異なる部分も多くあるかと思います。

けれど私は、それ以上でも以下でもなく、ありのままのたった一人の私として、今できることをやり続けることが、何よりも大切だと考えています。養成講座を通じて、一人ひとりがその人にしかできないヨガを探し、その心地よさを知ってもらいたい。

そのお手伝いができたら、どんなに嬉しいことだろうと思います。

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ストーリーVol.7 Eri Shiota

真っ白な壁に、よく磨かれたフローリング。
サッとひかれたカーテンの向こうからは、微かに生活の音が流れ込んでくる。
私が初めてヨガセラピスト協会を訪れたのは、横須賀にスタジオを移転して間もないころ。
正直に言うと、その“なにもない”光景に少し驚いた。
優しく微笑む暁子先生の眼差しに触れると、私の中に渦巻く感情がすうっと溶けて、透き通っていく。
なにもない空間は、私という存在をありのままに受け入れるための余白だ。
数あるヨガスタジオの中でも、そんな居心地の良さを感じたのは初めてのことでした。

私は幼いころから、人の評価を気にして生きてきたように思います。
もともと大人しい性格で、特にこれといってやりたいこともなく過ごした10代。
長女という責任感も手伝って、父の仕事を手伝うためにIT関係の学校に進学し、就職しました。
「そうしたい」というよりは「そうすべきだ」という選択の繰り返し。
最善を尽くしているはずなのに、虚しさだけが募っていく日々を過ごしました。

仕事も家庭もうまくいかない。
そんな生活が我慢の限界に達したとき、私は家を飛び出しました。
趣味だったサーフィンとフラダンスのショップでバイトを始め、そこで新しい恋に落ち、子供を授かった。
目的地のない各駅停車から、行きたい場所へと連れて行ってくれる快速特急に乗り換えたかのような気分。
ただしその特急列車は、あっという間に途中駅をも通過して行った。
気がつくと私は、二人の幼い息子を抱えたシングルマザーとなっていました。

ヨガを始めたのは、二人目の出産が切迫早産となったことがきっかけ。
女性特有の身体の不調に悩まされ続けており、その解決の糸口をヨガに求めたのです。
いくつかのヨガスタジオを経て、暁子先生の元へと辿りつきました。

ひとことでいうならば、心と身体が癒された。
それこそが、ヨガセラピスト協会のスタジオで私が体験したことです。
それまでの私は、とてもたくさんのことと闘っていたように思います。

子供に寂しい思いをさせてはいけない。
母親役も父親役も一人で果たさなければならない。
自分のやりたいことがわからなかったあの日には、戻ってはいけない。
だから私は、今の生活を楽しまなければいけない。
自分で作り上げた、たくさんの「こうでなければいけない」に囲まれ、苦しかった。

「嫌な思い、怒りを感じたときこそ、その感情を噛み締めてください」
「血圧が上がり、頭が痛くなることを回避せずに、ただ、感じてください」
産後鬱・育児鬱の淵にいた私にとって、暁子先生から投げ掛けられたそれらの言葉は、深く深く突き刺さりました。
暗い部分をかき消そうと、無意識のうちに光ばかりを追いかけていた。
強い光は、必ず深い影と隣り合っているということを忘れて。
私は、自分の影を厭い、目を背け、否定した。
そんな暗がりに真正面から立ち向かい、見つめ、受け入れてみると、行き場を失い淀んでいた感情が、少しずつ流れ出していきました。
心と身体をほぐして、自然の流れに身を委ねることで、自分の中が新鮮な空気で満たされていくように感じました。

ヨガセラピスト協会を卒業後、奄美大島へと移住することにしました。
一番の理由は、二人の息子たちとともに過ごす時間を、もっと大切にしたいと思ったから。
荒波に押し流されてしまわないよう常にどこかに緊張を強いられる生活から、ゆったりとした流れに身をまかせることができるような、そんな生活にシフトしていきたい。
そのために、生活環境を変えるチャレンジをしてみようと思いました。

離島への移住は、私や息子たちにとってはもちろんのこと、地元の方々にとっても初めての経験でした。
真新しさに心が弾み、眼に映るもの全てがキラキラと輝いて見えた。
島で生まれ育った方々にとっての日常全てが、私たちにとっては特別でした。

移住して2年目。
子供たちと過ごす時間は増えたというのに、もと居た場所での生活を懐かしむようになっていました。
それでも私は、奄美大島を離れようとは思いませんでした。
息子たちの送り迎えで車を走らせると、必ず眼に飛び込んでくるのはグラデーションの水平線。
全てを吸い込む深い群青色。
力強く燃える茜色。
眩しく世界を照らす黄金色。
留まることを許す漆黒の色。
豊かで美しい大自然が、一歩前に進む力を、いえ、決して前に進まなかったとしても、今までの自分自身を肯定し受け入れる勇気を与えてくれました。

家族、ヨガ、大自然、、、
様々なものに支えられて、いま、私はここにいます。
私が私自身であることを肯定してくれた、あの何もない空間を他のだれかのためにつくりたい。
「I and sea〜心と体のホッとサロン〜」は、そんな思いから立ち上げました。

スタジオに来る方は、定期的に通うというより、思い出したかのようにフラリと現れる方が多いです。
スタジオに訪れ、ご本人にも思いがけず涙をこぼし、最後にはすっきりとした顔で帰っていきます。
疲れている人がホッと一息つける場所。
そんな場所にしていけたらな、と思います。

家庭の悩み、女性の身体に関する病、新しい生活への挑戦。
私はこれまで、様々な経験をしてきました。
きっと、辛い経験をしている人はたくさんいると思います。
それでも笑って生きている人も、たくさんいます。
無理せず心から笑う女性の表情は、世界を明るくする。
私はそう確信しています。
なぜなら、今の私自身が自分の笑顔に励まされているから。

 

ストーリーVol.8 戸谷 舞

キッチンに立つとき、少し背筋が伸びる。
エプロンは使い慣れたものだけど、洗いたてが気持ちいい。
包丁はしっかりとにぎって、肩肘を張り過ぎないように。
もしかしたら途中で、甘えたがりの息子がぐずりだすかもしれない。
そんなときは落ち着いて「ママはここにいるから大丈夫」とぎゅっと抱きしめる。
おてんば盛りの娘が、不意に走り寄ってくるかもしれない。
いつの日かこの子たちに料理を教えるときがくるのかもしれないと思うと、いつも以上に愛おしく感じる。
掛け時計の針のように、チクタクと過ぎゆく日常。
そこに優しく瑞々しい彩りを添えてくれるのは、四季を感じる手作りの和食です。

人と接するのが好きで、好奇心旺盛。
どちらかというと、一つのことを極めるというよりは、いろんなことに挑戦してみたい。
そんな私が“ひとのからだ”に興味を持ったのは、学生時代に経験した部活のマネージャーがきっかけでした。
チームの勝ち負けというよりは、プレーヤー一人ひとりがベストコンディションで活躍できるようサポートすること。
おおげさに言えば、それが部活における私の任務だと思っていた。
その結果として、みんなと喜びを分かち合えることがなによりも嬉しい。
テーピングの仕方やストレッチの方法から始まり、人体の仕組みである解剖学へ。
やりたいこと・興味のあることとなると、どんどんのめりこんでいってしまうところが私にはあります。

進学した柔道整復師の専門学校は本当に楽しくて、あっという間に時が過ぎました。
骨の数や付いている筋肉の種類・臓器の位置やはたらきなど、人体の基本的な構造はみんな同じということを学びました。
基本は同じなのに、身体に関する悩みは十人十色。
それは、ひとりひとり生活習慣が違って、身体の使い方や考え方が違うからこそなんです。
個性の一部が身体の悩みとなって表出していると考えると、自分では欠点だと思っているところも愛おしくなる。
そうした悩みに対するアプローチの仕方も、本当にたくさんあります。
実習やバイトを通じて様々なアプローチ方法を学ぶなかで、ヨガにも触れるようになっていきました。

ヨガセラピスト協会の前身となるヨガサロンに通い始めたのは、学生時代。
いくつか資料請求したなかで、なによりも人の温かみを感じたのが大きな決め手でした。
心と身体を丁寧にほぐし、無意識のうちに抑え込んでしまっていた自分を解き放ち、より自由になっていくような。
これまで味わったことのない感覚。
それはとても、優しくて温かい。
心と身体が軽くなる心地よさが、そこにはありました。

実は、当初はヨガに対してなんとなく難しいイメージをもっていました。
ですが実際に体験してみると、学んできた解剖学の知識とリンクする部分がとても多いことを知りました。
ヨガにも基礎となる考え方があり、難しいポーズができない場合は、軽減ポーズがある。
どんな人にも合わせられるアプローチの仕方があり、適切なアプローチを経ることで、どなたでもヨガを通じて心地よさを感じることができます。

ヨガセラピストとしてヨガを教える側になった今も、心と身体が軽くなる心地よさを一番大切にしています。
ヨガを極めるというよりも、この心地よさを誰かと共有したいというのが私の一番のモチベーション。
難しいヨガのポーズに挑戦したり、哲学的な瞑想の世界に没入したりすることに、どちらかと言うとこだわりはありません。
もちろん、美しいポージングや深い瞑想も大切だと考えていますが、まずは感じることを大切にしたいから。
時間や言葉を超えて伝わるものが、そこにはある。

ヨガセラピストと同時に和食講座の活動を始めたのは、娘が2歳になるころでした。
それまで料理にはあまり興味も自信もなく、少し避けてきた部分もありました。
自分の空腹を満たすためだけのものから、家族の健康を支え、身体そのものを作るものへと意味合いが変わり、本格的に料理を学んでみたいと思い始めたタイミング。
ヨガセラピスト協会で和食講座がスタートしたのをきっかけに、和食に挑戦することにしたのです。

和食講座では驚きの連続でした。
手に取ったことのなかった、旬の食材の数々。
そのときどきの食材を生かすためにある、たくさんの調理方法。
目にも鮮やかな盛り付け。
和食というと勝手に煮物ばかりの地味なイメージを抱いていましたが、講座で習うレシピは実に多彩。
そして何よりも驚きだったのは、その美味しさ。
「わざわざ料理教室に通わなくても、、、」なんて言っていた夫も、和食講座で作った料理を披露すると「次の講座はいつなの?」と目を輝かせて訊ねてくるように。

ヨガセラピスト協会の和食講座でお教えしているレシピには、二十四節気の移ろいに合わせて“ハレ”と“ケ”のバリエーションがあります。
ハレとはお客様をおもてなししたり、特別なお祝いをしたりする華やかな場面。
ケとは、私たちにとって欠くことのできない日常。
基本を押さえれば、少しの工夫でそれぞれにふさわしい食卓を作ることができるように。
どこか、ヨガに通じるものがあるように感じます。

まだ幼い二人の子供を抱えているから、私にとって無理なく続けられることはとても重要。
今はヨガ教室も和食講座も、自宅で少しずつ開催しています。
不思議なことに、私がヨガをやっていると子供たちはいつも以上に嬉しそう。
身体を使うことや食べることを通じて、この気持ちを、この愛情を大切な人に伝えることができる。
それはどなたにとっても、とても素晴らしいことになると感じています。